1月20日、いずみたく誕生
東京市下谷区生まれ、本名は今泉隆雄
幼少時より音楽家を志し、ピアノと作曲の腕を磨いた。早稲田大学在学中よりプロのジャズピアニストとしての活動を本格化。ジャズ・コンボ「ビッグ・フォア」の一員として一世を風靡した。1959年、永六輔とのコンビで「黒い花びら」(第1回日本レコード大賞)を発表、68コンビとして、音楽バラエティー番組「夢であいましょう」を舞台に、「遠くへ行きたい」、「こんにちは赤ちゃん」(第5回日本レコード大賞)など数々のヒット曲を生んだ。 1961年に発表された「上を向いて歩こう」は、1963年に「SUKIYAKI」と改題されて米国ビルボードランキングで3週連続1位を記録し、世界的な大ヒットを記録する。生涯作曲した数は300曲以上で、決して多作ではないが、現在に至るまで歌い継がれている数々のスタンダードナンバーを遺す。また、生涯を通じて、ピアニストとして演奏活動を続け、洗練された編曲技術や、歌手に対するプロデュース能力についての再評価も高まっている。 1992年6月10日心不全のため逝去。享年61。
本名は今泉隆雄。1946年鎌倉アカデミア演劇科に入学、1950年に舞台芸術学院演劇学科を卒業後、芥川也寸志に師事し作曲活動を始める。その後、三木鶏郎率いる冗談工房に参加し、トリローグループの一員となる。1955年、朝日放送ホームソングコンクールにてグランプリを受賞。歌謡曲からCMソングまで幅広いジャンルの曲を作曲。生涯の作曲数は15,000曲に上る。1969年、佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」が第11回日本レコード大賞を受賞。 1960年に永六輔とミュージカル「見上げてごらん夜の星を」を制作、以来、「歌はドラマである」をモットーにミュージカルの創作にも力を入れ、120本余のミュージカルも作曲した。また、いしだあゆみ、ピンキーとキラーズ、佐良直美らの歌手も育て、1977年にはミュージカルを専門に上演する劇団フォーリーズ(現ミュージカルカンパニー イッツフォーリーズ)も創設した。 1992年5月11日肝不全のため死去。享年62。
東京市下谷区生まれ、本名は今泉隆雄
幼少時より音楽に親しみ、神童の名を欲しいままにピアノの腕を磨いた
舞台芸術学院演劇学科を卒業後、芥川也寸志に師事し作曲活動を始める。その後、三木鶏郎率いる冗談工房に参加し、トリローグループの一員となる
早稲田大学在学中よりプロのジャズピアニストとしての活動を開始。ジャズ・コンボ「ビッグ・フォア」の一員として一世を風靡
朝日放送ホームソングコンクールにてグランプリを受賞。本格的に作曲活動を始じめる
永六輔とのコンビで「黒い花びら」(第1回日本レコード大賞)を発表、68コンビとして音楽バラエティー番組「夢であいましょう」を舞台に「遠くへ行きたい」「こんにちは赤ちゃん」(第5回日本レコード大賞)など数々のヒット曲を生む
永六輔とミュージカル「見上げてごらん夜の星を」を制作。以来「歌はドラマである」をモットーにミュージカルの創作に励む
「上を向いて歩こう」が「SUKIYAKI」と改題されて米国ビルボードランキングで3週連続1位を記録
5月11日、肝不全のため死去、62歳没。
6月10日心不全のため逝去。享年61。