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いずみたくと中村八大

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いずみたく没30年メモリアル企画

ぼくたちの音を楽しむ

今陽子、尾藤イサオほか、ゆかりのある出演者で紡ぐ
いずみたく・中村八大の物語と、昭和を代表する名曲たち

作曲家

中村八大

幼少時より音楽家を志し、ピアノと作曲の腕を磨いた。早稲田大学在学中よりプロのジャズピアニストとしての活動を本格化。ジャズ・コンボ「ビッグ・フォア」の一員として一世を風靡した。1959年、永六輔とのコンビで「黒い花びら」(第1回日本レコード大賞)を発表、68コンビとして、音楽バラエティー番組「夢であいましょう」を舞台に、「遠くへ行きたい」、「こんにちは赤ちゃん」(第5回日本レコード大賞)など数々のヒット曲を生んだ。 1961年に発表された「上を向いて歩こう」は、1963年に「SUKIYAKI」と改題されて米国ビルボードランキングで3週連続1位を記録し、世界的な大ヒットを記録する。生涯作曲した数は300曲以上で、決して多作ではないが、現在に至るまで歌い継がれている数々のスタンダードナンバーを遺す。また、生涯を通じて、ピアニストとして演奏活動を続け、洗練された編曲技術や、歌手に対するプロデュース能力についての再評価も高まっている。 1992年6月10日心不全のため逝去。享年61。

作曲家

いずみたく

本名は今泉隆雄。1946年鎌倉アカデミア演劇科に入学、1950年に舞台芸術学院演劇学科を卒業後、芥川也寸志に師事し作曲活動を始める。その後、三木鶏郎率いる冗談工房に参加し、トリローグループの一員となる。1955年、朝日放送ホームソングコンクールにてグランプリを受賞。歌謡曲からCMソングまで幅広いジャンルの曲を作曲。生涯の作曲数は15,000曲に上る。1969年、佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」が第11回日本レコード大賞を受賞。 1960年に永六輔とミュージカル「見上げてごらん夜の星を」を制作、以来、「歌はドラマである」をモットーにミュージカルの創作にも力を入れ、120本余のミュージカルも作曲した。また、いしだあゆみ、ピンキーとキラーズ、佐良直美らの歌手も育て、1977年にはミュージカルを専門に上演する劇団フォーリーズ(現ミュージカルカンパニー イッツフォーリーズ)も創設した。 1992年5月11日肝不全のため死去。享年62。

Biography

いずみたく × 中村八大

1930
いずみたく子どもの頃
いずみたく
1月20日、いずみたく誕生

東京市下谷区生まれ、本名は今泉隆雄

1931
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中村八大
1月20日、中村八大誕生。

幼少時より音楽に親しみ、神童の名を欲しいままにピアノの腕を磨いた

1950
運転手
いずみたく
いずみたく、作曲活動開始

舞台芸術学院演劇学科を卒業後、芥川也寸志に師事し作曲活動を始める。その後、三木鶏郎率いる冗談工房に参加し、トリローグループの一員となる

1950
八大ジャズ
中村八大

中村八大、ジャズの道へ

早稲田大学在学中よりプロのジャズピアニストとしての活動を開始。ジャズ・コンボ「ビッグ・フォア」の一員として一世を風靡

1955
History Image
いずみたく

いずみたく、作曲活動開始

朝日放送ホームソングコンクールにてグランプリを受賞。本格的に作曲活動を始じめる

1959
八大作曲
中村八大

作曲家へ転身

永六輔とのコンビで「黒い花びら」(第1回日本レコード大賞)を発表、68コンビとして音楽バラエティー番組「夢であいましょう」を舞台に「遠くへ行きたい」「こんにちは赤ちゃん」(第5回日本レコード大賞)など数々のヒット曲を生む

1960
見上げて坂本舞台写真
いずみたく

ミュージカル創り開始

永六輔とミュージカル「見上げてごらん夜の星を」を制作。以来「歌はドラマである」をモットーにミュージカルの創作に励む

1963
八大作曲
中村八大

SUKIYAKI大ヒット

「上を向いて歩こう」が「SUKIYAKI」と改題されて米国ビルボードランキングで3週連続1位を記録

1992
見上げて坂本舞台写真
いずみたく

永眠

5月11日、肝不全のため死去、62歳没。

1992
八大作曲
中村八大

永眠

6月10日心不全のため逝去。享年61。