ミュージカル 歌麿

歌麿の生きた時代、若きクリエイターたちの夢と挫折

三十年間、「見果てぬ夢」であった、アメリカ公演がとうとう実現し、無事に終わった。
思い起こせば、ボクの処女作のミュージカル「見上げてごらん夜の星を」がヒットし成功してから、この「歌麿」は百本目の作品になる。子どものためのミュージカルが、その中の三分の二位あるが、自分でもよくぞ作り続けて来たと思う。その処女作が上演されてから、四年後に初めて、ブロードウェイ・ミュージカルが日本に上陸し、上演された。つまり、日本でのミュージカル運動は、ボク達の方が早かったのである。それ以来、日本のミュージカルに固執して三十年経ってしまった。
何故?とよく問われるが、日本人は、日本人の体で、日本人の思想で、作品を作るのが当たりまえ、外国の物真似をしても勝てないと信じているからである。
今度の「歌麿」も、日本人でしか出来ない作品だから、アメリカのプロデューサーに招かれたのだ。ボクはアメリカのプロデューサーから何度も、「たくサン、日本的な作品にして下さい」と要請された。そしてそのミュージカルは、アメリカ国内で、六都市、16 ステージ、大成功した。現在、また再演の話も進んでいる。とうとう「見果てぬ夢」は「見果てぬ夢」でなくなった。
その作品を、今皆さまに見て戴きたいと思います。今日は本当に有り難うございました。今日の上演を、心からアメリカ公演を実現させてくれた、アメリカのプロデューサー、コーラ・三力谷サンに捧げます。感謝をこめて…。(いずみたく ~1988 年の紀伊國屋公演・プログラムより~)

ものがたり 18 世紀末、商人が次第に勢力を握り、封建制が揺るぎ始めた頃、各地で重税に耐えかねた農民たちの一揆、打ちこわしが頻発し、江戸のさかり場・両国にも、虚無と退廃が渦巻いていた。
その両国の町を我が物顔で練り歩く若き芸術家たち。狂歌・戯作で有名な四方赤良(よもの・あから、大田南畝の狂名)、恋川春町(こいかわ・はるまち、戯作者)、朋誠堂喜三二(ほうせいどう・きさんじ、平沢常富の筆名)、宿屋飯盛(やどやの・めしもり、石川雅望の狂名)の前に一人の若者が放り出された。まだ駆け出しの浮世絵師・喜多川歌麿である。
難波屋という水茶屋の娘「おきた」の中に、自分の求めていた女を見出し、絵に描こうとして断られたのだが、四人の計らいで、おきたの絵を描く事になり、その縁で若き日の蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう、浮世絵の版元。通称=蔦重)とも巡り会う。二人は意気投合。おきたの絵も飛ぶように売れた。歌麿は得意絶頂。吉原の扇屋で四人の友と、花魁をはべらせての遊興三昧。酒におぼれながらの悪ふざけの中で、おきたとの仲はもつれてしまう。
時代は足早に移り、暗い影が彼ら若き芸術家たちを覆う。田沼意次(たぬま・おきつぐ)が失脚、代わって老中に座った松平定信の寛政の改革によって、赤良は大坂に逃げ、喜三二は筆を折り、飯盛は江戸を追われ、春町は毒を飲まされた。謎の絵師・写楽に命運を賭けた蔦重もこの世を去る。
一人、歌麿は孤独を噛みしめていた。予感は的中した。この時代の荒波の仲で、今、歌麿にしか描けない絵を描こうと、彼は立ち上がるが、時代は彼に手鎖をかけるのだった。

公演概要